遺跡を訪ねて


<桑名市 その2>

桑名市の町屋川・員弁川の南側の遺跡です

 金井城跡

 
                 南北が逆                                    金井城跡

桑名市東金井の春日神社の南側に金井城跡があります。

築城は松岡彦之進家勝、遺構は郭 土塁 堀 遺物は五輪塔です。
この城も織田信長勢により滅ぼされ、城跡に山家氏や戦没者の墓塚が見られます。

 
       春日神社に突当る            城跡の一部

 
       山家氏墓の石標              石標から藪へ入ると

 
     輝源院殿釋潤翁大居士           複数の墓碑銘 

山家氏は、地図にある徳元寺(黄色の下線)に所縁があります。

徳元寺は東金井城主、松岡彦之進の被官 山家氏一族の祐西坊により明応年間(1492~1501)に開基され、
長島一向一揆の際に、信長勢に攻められて廃寺になりましたが、慶長5年(1600)に再興し、本堂は文化2(1805)年に建立されました。

と紹介されていますが、平成25年(2013)時点では鐘楼堂のみ残り、本堂などは取り壊され廃寺となっています。
鐘楼堂の梵鐘は、明治初年まで、桑名の春日神宮寺にあった北勢地方最古のもので、廃仏毀釈の際に徳元寺に買い取られました。
この鐘は、太平洋戦争中に供出されて溶かされるところでしたが、文化財保護に奔走された方々によって救われ元に戻りました。

* その後、平成29年(2017)に、春日神宮寺の別当であった 桑名市南魚町の 「仏眼寺」 に移りました。

  
     徳元寺にあった梵鐘              仏眼寺に移された梵鐘

春日神宮寺も廃寺です。

この寺院は、桑名市本町の桑名宗社(通称・春日神社)の境内にありました。
久波奈名所図会の 「北の門」 の左側の建物で、現在は春日神社会館が建っています。

   
         『久波奈名所図会』  クリック拡大

古代より日本人は八百万の神を信仰し、6世紀に伝わった仏教も溶け込み(神仏習合思想)、
「神宮寺」という、神社に付属した仏教寺院が建てられました。

現在においても、子供が生まれるとお宮参りをし、亡くなると仏式で葬儀を行う、
お正月は神社に初詣、お盆は寺院の墓へお参りする、など普通のことですね。

ところが、神道国教化の方針を採用した明治政府は、慶応4年3月(1868年、後に明治元年)に 「神仏分離令」 を出しました。
政府の意図は、神社と寺院を明確に分離させることでしたが、拡大解釈され 「廃仏毀釈」 を引き起こし、
寺院、仏像をことごとく廃棄する運動が全国的に広まりました。

この時に、春日神社境内の神宮寺も取り壊され、廃寺となりました。


 桑部城跡

城主は北城が毛利次郎左衛門秀重、南城が大儀須若狭守で、両城とも織田信長の伊勢侵攻(1567年)
により滅ぼされました。

 
      城山が有った所               城山稲荷    

 
        城山伝承の碑              了順寺

元和7年(1621) 北城の毛利次郎左衛門秀重の孫、毛利次郎助秀元が出家して、桑名市大福に桑部山了順寺を建てました。
ちなみに了順寺の山門は、桑名城から移されたものです。

桑部城跡は平成7年から発掘調査が行われ、桑部城跡発掘調査報告書(1次~6次)が発行されました。
その時の北城の調査では、大量の弥生時代の土器も見付かっています。

 造成前の城山 右が北方向

発掘調査報告書より
 地形調査図 上北方向

桑部城跡の概要 (桑名市HPより)

桑部城跡は、町屋川南岸に舌状に張り出した標高50m前後の 低丘陵地の先端部に築かれています。
城は、2つの大規模な空堀によって3つの主な郭に分かれ、北の郭が桑部北城、中央の郭が桑部南城と呼ばれています。

北城は一辺約50mのほぼ菱形をした郭で、西・南辺及び、北辺の一部に高さ1~1.5mの土塁が巡っています。
北・東辺には土塁状となる顕著な盛り土は認められませんが、丘陵斜面が削平され切岸として利用されているようです。

北東及び、北西部に伸びる尾根とは堀切によって隔てられており、西側には帯状の腰曲輪が構築されています。
南城は約80m×40mの長方形状の郭で、1~1.5mの土塁が北辺以外に巡っています。

南西隅には桝形状の虎口が設けられ、東側に派生する尾根とは堀切で隔てられています。
南城の南には、現在は稲荷社となっている約40m×20mの長方形の平坦地がつくられ、城域内の最高所の郭となっています。

「第10回 北勢線の魅力を探る報告書」 の 「桑部城と大儀須家館」 には、他には無いユニークな記事が書かれています。
https://blog.canpan.info/hokuseisenn/img/10kuwabe.pdf


 止山古墳

桑名市桑部の桑名南ハイツ団地の造成時(昭和50年代)に出土したものが 「須恵器 堤瓶」 です。
止山古墳の副葬品の中で見付けられたのは、この一品のみです。

6世紀頃のものと推定され緑色の自然釉がかかり、口頸部は2段で頸中央に櫛書き状の波状文が施されています。
高さは27.4cmで3つ有った把手のうち、1つは焼結前に剥落して取付跡だけになっています。



この地域は発掘調査されずに、古墳は無造作に崩壊、整地されて住宅地となりました。


    止山古墳があった跡地

 島田城跡

桑名市島田東山の、この城の情報は乏しく、島田兵庫助が居城した以外は分かりません。

赤尾西信号を越えた100m位のところから、左側に丘陵があります。

 
        北面                    東から

城跡の北には用水が流れ、高いコンクリートの塀となっていますし、他の面は、㈱ハネックス(旧羽田ヒューム管)という会社の敷地内ですので、
城跡に入ることは困難です。


 志知遺跡

桑名市志知字平群沢、平群神社の裏山に遺跡があります。
古墳時代の土馬、須恵器、土師器などが出土し、南側に平郷水神があります。

 
        平群神社                 平郷水神

 
    平群沢ため池公園側から           古墳ではないとされる頂き


 志知城跡

志知遺跡と同じ丘陵北側に沿って、西に400mほどの場所が、員弁行綱が居城した志知城跡で、萱生城の出城でした。
萱生城は、四日市市萱生町城山にあり、伊勢平氏を祖とする伊勢春日部氏の本城でした。

伊勢春日部氏の一族・家臣は、伊坂城、星川城、金井城、大矢知城を築き勢力を拡大しました。
天正年間に織田信長に城を奪われ勢力を失いましたが、江戸幕末まで武家として存続しました。

 

深い谷に阻まれ、城跡に入ることはできませんでした。


 景清屋敷跡

景清屋敷跡は、志知の田んぼの畦道沿いにある石碑です。

景清とは平家物語にも登場する、平七兵衛景清(藤原景清)で、平安時代に平資盛(たいらのすけもり・平清盛の孫)の目代として、
志知に住み治政にあたりました。
源平の戦にのぞみ勇名をとどろかし、悪七兵衛景清と称されました。

 

木の陰に、もうひとつの石碑があります。

     
                              悪七兵衛景清

「平家住みし 遺跡を濡らす 春の雨」 (内田)一舟

聞説景公留志知 當年遺跡再興誰 恩讐如夢恨何限 八百星霜剰一碑 訪平景清公遺跡 戌午弥生桑城

と刻まれています。

                              おもちゃ箱へ戻る  その3へ進む 

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